本稿は、これまで近世思想史の中であまり注目されてこなかった豊後国(今の大分県)速見郡小浦出身の儒者脇蘭室(1764-1814)を取り上げてその思想を考えるものである。蘭室は、天明4(1784)年21歳の時、熊本に遊学し藪孤山の門に入って朱子学を学んだ。そして、天明5(1785)年とその翌年の2度に亘って、豊後富永の三浦梅園を訪ねて教えを請うた。さらに、天明7(1787)年24歳の時大坂に遊学して懐徳堂の中井竹山の門を叩いた。大坂での滞在はわずか5ヶ月だったが、その後頻繁な書簡の往復や33歳の大坂再訪などによって師竹山をはじめ懐徳堂周辺の知識人たちと密接な交流を重ねた。本稿は、まず蘭室の『歳闌漫語』といった著作を取り上げそこに込められた「修己治人の道」という大きなメッセージ、およびそれに関わる蘭室の顔子評価を考える。さらに、蘭室の思想がいかに熊本藩の指導者への建言書に集約され経世論として展開されていったのかを見ていく。|Waki Ranshitsu(1764-1814) was the outstanding pupil of Nakai Chikuzan(1730-1804) of the school Kaitokudo in early modern Japan. Ranshitsu is a important person to understand the Kumamto Clan governance and educations in Higo, Bungo and other places near that. The paper deals with Ranshitsu's thought, especially his political thought and the relations among Kaitokudo and other intellectuals in early modern Japan